誕生日の想い出

50年のなかで一番印象に残っている誕生日は、17歳の夏。72人からプレゼントをいただいたのも嬉しかったけど、家に帰ってビックリしたことを今でもよく覚えている。

学校へ行く前に「小さいころは友達を呼んでパーティーを開いたりしてもらったけど、そういえばママからお祝いってもらったことないよね~」と言うと、母は「そうね~」と普通に返事をした。

学校から帰る時間には母は仕事でいない。鍵をあけて、西日しか入らない部屋に入ると、蛍光灯に垂れ幕がぶら下がっていた。
垂れ幕? 四畳半の部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の上で、ひらめく白く長い紙には達筆な母の字で大きくこう書かれていた。

「よくぞここまで生きてきた」

これが誕生日の言葉? 私は一人で笑い転げて、母のユーモアに脱帽した。自分一人で育てた一人娘が17歳になったことを思ったら、この言葉が浮かんできたんだろう。それを垂れ幕に書いちゃうのが、他の家のお母さんとは違う、母の母たるところなんだ。

私が17歳になれたのは、いろいろな人に助けてもらってきたからだと、母は思ったんじゃないだろうか。垂れ幕を笑い話にしたまま、真意を問う前に逝ってしまったけど。

クラス会や同期会に出ると、たいてい誰かが母との思い出話をふってくれる。みんなの頭の中に、快活で人好きな母が残っている。

貧乏だったけど貧しくはない、むしろ豊かに育ててくれた母への一番の親孝行は、私がいい友だちに恵まれたことじゃないかなあと勝手に思っている。

※2011年7月7日Facebookノートに掲載したものです

1 個のコメント

  • 素晴らしいお母さんですね。(笑)
    少し似ている人生を母親から受け育ってるかも知れません。
    幸せか不幸かは人それぞれ感じることですが、いわゆる幼少期はいつも1人でした。
    鍵っ子、首に紐でぶら下げてる鍵のついた小学生(笑)
    戦後の厳しい時代に母親は明朗活発で働くウーマンでした。
    母親の里は、女中さんが3人もいた財産家。
    父親の里は、漫画で例えたらちびまる子ちゃんに出るよく自身も通った駄菓子屋さんみたいな里で、身分が違い結婚を反対され昭和29年頃、まだ道も舗装されてない時代に父と高校時代に母親が好きになった人だったようで、津久井郡から井の頭公園の近くの友人宅に家を出て、自分の思いを両親に伝える為に2日ご飯を食べず歩いたと何度も恋愛小説を聞かされた思いがあるのですが、そのお陰かはわからないけど、二人の夢旅行のお陰と家を建てる夢の中…共働きで、いつも1人でランドセルを背負ったまま、座布団に顔をうずめ「お母さん~いない~!」と泣いている幼少期を体験する子供でして、泣いてると兄が帰宅し、お昼食べよ……とご飯とお味噌だけど用意してくれる合間、テレビをつけて「これ見てろ?」とつける番組は、自分が見たいテレビでして、かっぱの三平と次に悪魔くんという番組で、当時モノクロの時代で、妖怪番組だったから…また座布団に顔をうずめ泣いていた記憶が貧乏家の幼少期体験してた自分であります。
    母親はよくこう言ってました。
    「貧乏大いに結構~!」右手を天上に向け笑顔でね。(笑)多分幸せだったのはお母さんだけだったのかも知れませんが、、、
    小学校の時にノートにこんな文字を綴ってました。

    小さな家でもいい
    優しい気持ちとあたたかい会話があれば
    いつかその家は大きく見えるんです。

    なんとなく母親を見てたのかも知れません。

    働く女性は偉大です。
    また素晴らしいお母さんに出会い感無量です。
    素敵な友人に出会い、また友人もそう思ってるからナイス!友情にも乾杯♡
    お母さんも傍で見守ってくれてますよ。(笑)

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    ちょっちょです。
    4人の子どもと4人の孫に恵まれましたが、パートナーはおりません。たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん楽しんで、たくさん悩んだ波瀾万丈な人生。まだまだ面白がろうと思っています。
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    Ally(アライ)であることを表明しています。

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