【ほ】歩道橋とボウリングと穂村弘

新青梅街道と通学路

私の記憶が確かなら、小学校3、4年生のころ、通学路である新青梅街道に歩道橋がかけられた。

現在は、車椅子やベビーカーへの配慮があり歩道橋ではなく横断歩道が良いとされているが、あのころは激増する交通事故から歩行者を守るために、歩道橋やガードレールがどんどん作られていった。美濃部都知事による革新都政である。

「歩道橋の上から見ると、景色が全然違うんだよー」と興奮して話す私に、母が「事故が減るのは良いことだけど、車社会も良いことになっちゃうのよね。。。」と言ったことを何故かハッキリと覚えている。

歩道橋での通学に馴れたころ、歩道橋の横にある交番のお巡りさんをからかってから帰ることが楽しくなっていた。
その日もいつものように交番をのぞいていたら、中に招き入れられて「大人をからかってはダメ」とちょっとお灸をすえられた。

口調がやさしかったので気まずくもならず、その後はちゃんと挨拶をして通っていたが、やはり私は少し変わった子どもだったんだなぁと思う。
今でも人との距離の取り方がよく分からず苦手である。

数年前に撤去された表参道の歩道橋。時代は変わりますね

昭和に流行ったもの

小学生時代にブームになったものの一つにボウリングがある。ボウリング大会がテレビ中継され、プロボウラーが出演するCMが人気だった。

新青梅街道沿いにある黒龍ボウルも、週末は長蛇の列だった。母がハマったこともあり、私もよく連れていかれ、たまに投げることもあった。

紙のスコア表に結果を記して計算していくのが好きだった。隣のレーンの人に計算方法を教えてあげて少し仲良くなると、お互いのストライクを喜びあえる感じも好きだった。
マナーとしての拍手と、喜んでくれてるそれとは違うから。

ブームが去り黒龍ボウルがマンションに変わったころには、もう母と行くことも無くなって、たまに友人と遊ぶときには中野サンプラザのボウリング場を利用した。PTAでも親睦ボウリング大会をやったりしてたのは、年代の幅があるとはいえ、私たち親世代がブームを通ってきたからだろう。

カーン!と響き渡る爽快な音と、ゴトンと溝に落ちる音のどちらも懐かしい。たまに手から滑って、ドンと落としたりもした(これはガーターより恥ずかしい)。

会社のボウリング大会。ピンの着ぐるみは私の私物です

手書きのスコア。124はまあまあ

ホムホムLOVE

「ちょっちょの好きな人は石丸幹二さん」「ポールも大好きだよね」と、お分かりの方がほとんどだと思いますが、文章を書く人では穂村弘さんの大ファンである。

1990年代にニューウェーブ短歌を推進した歌人であるが、実はホムホムの詠む短歌よりエッセイが好み。今回このブログ用に写真を撮ろうと本を探したら、すぐに取り出せる場所にあるのはエッセイばかりであった。

20年近く前に短歌のイベントで後ろの席にいらっしゃるのを見つけて、思い切って声をかけてみた。

「あのー、触らせていただいてもいいですか?」

「どうぞ」と言われたので、ホムホムの手の甲を三回つつかせてもらった。

「ありがとうございます」と言ったら、「え? それでいいんですか?」と驚かれたが、「はい。もう十分です」と。

隣にいたのが同じく歌人の東直子さんで、こちらは握手をさせてもらった。

『短歌研究』という月刊誌のメールで添削するコーナーでは一度選んでいただき、マンツーマンの添削を受けた。ワクワクするってこういうことだと思った。

ホムホムのエッセイが好きだと書いたが、歌人のホムホムが書くから好きなのだな。

そして、短歌もやっぱり好きだと思う。

これは一部です。でも他をどこにしまったか、ちょっと不安。。。

このころは柊弓子という名前で短歌を詠んでいました。
(元)黒文字がかすれるほどの風が吹き何も残つてゐない便箋

(改作)黒文字がかすれるほどの風が吹き「あき」「ふみ切り」がからうじて見え

 

ちょっちょ
短歌を詠みたいなと思ったり、ボウリングをやりたいなと思ったり。単純な私ですが、歩道橋を渡りたくはなっていないです

ABOUTこの記事をかいた人

ちょっちょです。
4人の子どもと4人の孫に恵まれましたが、パートナーはおりません。たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん楽しんで、たくさん悩んだ波瀾万丈な人生。まだまだ面白がろうと思っています。
私が感じていることが、どなたかの心に響けば幸せです。
Ally(アライ)であることを表明しています。

※万覚帳(よろずおぼえちょう)とは、まだ余白がある帳面のことです。雑記帳、メモ帳